学生ブログ
トロントでの留学体験-vol.1-
私は「多くの人と関わり続け、人と人とのつながりを感じることで、自分自身を高められる人でありたい」という人生の目標を掲げている大学休学中の20歳。これから一か月で感じたことや、何か特別な体験をした時、また強い思いを持った時にこの体験記を書いていきたい。今回は語学学校に入学してひと月ということで感じたことを綴る。
はじめに、「自分」と「他人」の距離について考えたい。私は多くの国籍を持った人々が集まる語学学校ではどうしても「日本人」と「それ以外」で分けてしまう。自分の人種が日本と違いマイノリティになることを自覚して仲間を探したがっているのか、同じような感覚を持つ人を探したがっているのか。その中で私は4月、「海外の人1って自分勝手ではないか」と率直に思う時間が多くあった。例えば、学校のロビー。日本だとテーブルにグループが座っていたら、そのテーブル以外の席を探す。私は単純に友達のグループの中に入っても気まずいと思うだけだからだ。しかし海外の人たちは違った。一つでも空いていたら座るし、そこから自己紹介が始まり、そのグループの中で当たり前のように会話を回す。反対に自分に対して悪い存在に対しては「嫌いだ」とはっきり伝え、その人とは関わらなくなる。
ハウスメイトは家において遠慮は全くしない。学校とホストファミリーでの契約上、ホストファミリーが平日は2食、休日は3食用意してくれる。私は想像以上の好待遇に歓喜し、ファミリーがいくら自分の家と思ってリラックスしてねと言ってくれても遠慮がちの生活を1週間送った。だがフランス人のハウスメイトは、ママの料理を食べ、口をとがらせ眉間に皺を寄せ「American!!」となんだか皮肉っぽく感想を述べる。自分が食べたくないものだったら、食べず、個人的にキッチンで作る。私は本当に衝撃を受けた。
クラスメートのコロンビア人(24歳 弁護士)は私との話す時間の中で堂々と「I don’t like French.」としっかり主張してきた。そして「ラテン人はオープンマインドを持っているがフランス人はフランス人だけで固まるのはなぜだ」と不満を漏らしていた。私はここまで正直に言われるとは思っていなかったために大きな衝撃的な出来事だった。
おそらくだが、海外の人のほうが「自分」と「他人」の距離が日本よりも遠いと思う。もちろん物理的な距離のことではない。海外の人はグータッチ、握手、ハグやキスを挨拶2とする。ここでの距離というのは自分と他人、どちらのことのほうを大切に思っているかということだ。日本人は自分の考えの前に他人のことを考えることが多々ある気がする。電車に乗り降りする際、人の前には割り込まない。食事一つするにしても、冷蔵庫は勝手に開けていいのか、お鍋から取り分けるなら私が満腹になるまで食べたら誰かが不満足になるのではないかと考える。授業では先生の話が終わるまで質問をしない。日本人は迷惑に怯え、他人の気持ちを推し量り自分の行動を決定付ける。だが海外の人は違う。おそらく日本人よりもはるかに「自分」を大切にしているのではないかと考えた。自分を確立した存在とし、他人のことより自分を優先する。私が座りたいから空いていたら座る。私が気になるから、「質問してもいいか」と先生にすぐ尋ねる。私がより豊かな生活を送るために食べたいものを食べる。私が第一印象で自分勝手と思っていた行動はすべて「自分のための行動だったのではないか」と思うようになった。
次は各国がもつアイデンティティについて記述していきたい。一つ目のクラス3は日本・韓国・フランス・ベルギー・台湾・コロンビア・メキシコの国籍を持つ人がいる。出身国を自己紹介する際、台湾人は中国人ではなく台湾人だと主張し、韓国人は「South Korea」だと主張した。先生が台湾は中国であり、韓国は「Korea」だろうと話すとそれぞれの国の生徒は違うと懸命に弁明していた。またコロンビアとメキシコの生徒は国は違うものの、私たちはラテン人であると私に紹介してくれた。そして日本人と韓国人の関係性についても興味深いと思った。日本にいると政治問題のニュースをよく耳にするため日韓関係はとても悪いように感じる。だがトロントではそんなことは全くない。日本からは韓国ブームにおける韓国料理やKPOPアイドルの話、韓国からは日本産のアニメや知っている日本語を披露しあっている生徒たちをよく見かける。ヨーロッパのコミュニティと思われる生徒はフランス語を話し、ラテンのコミュニティと思われる生徒はスペイン語を話す4。だが日本、韓国はそれぞれ日本語、韓国語と使う言葉が全く違う。だがアジアというコミュニティを持つため英語を使いつつ文化交流をしている。つまり日本人と韓国人はとても仲がいい。政治の話も宗教の話もしない。それぞれが個人を見て話ができているからではないかと考えた。
次に現在5での日本人のかかわり方について記述しておきたい。私は出国するまで絶対に日本人と関わらないと決め込んでいた。英語を勉強し、日本以外の国の人のことを知る為の留学だからである。今でもその目的はぶれずにしっかりと持ち続けている。しかし実際は日本人が想像以上に多かった。クラスは19人いるが私を含め3人の日本人がいるし、4月入学は日本人が多いために関わらないというのは現実的に難しい6ことがトロントについてから判明した。だから私は考え方をシフトチェンジすることにした。日本人と関わらないのではなく、どこかに遊ぶときは外国人の友達も誘うようにしたり、私と同じように英語に対して真摯に向き合っていたいと思っている日本人を探してみたりしようと考えてみた。日本人の中にももちろん熱量が異なる。だから私は言い方は悪いが自分に合う日本人とは自分のために友達となり深く関わりたいのだ。悩み事がどうしてもある時、私が感じていることを100%で分かってくれるのは同じ環境にいる日本人なのである。いつも自分の言いたいことを完全に言えないというもどかしさを感じているがどうしても苦しくなった時はそこは甘えてもいいのではないかと率直に感じている。
そして語学学校での日本人の特徴として面白いのは、日本人はまじめだなと感じることが多いことである。ロビーでの会話を聞いていると予想以上に英語以外の言葉が聞こえてくるし、クラスにいてもフランス語や韓国語が少し聞こえるために先生が注意しているという状況をよく見る。学校ではもちろん英語しか話さないのが当たり前である。英語を学習するための場所であり、英語以外の言葉を使うと意味が分からないからその言葉を理解できない人が不快な思いをするからだ。だから多くの日本人はロビーでは英吾を頑張って話す。日本人だけのテーブルでも英語で頑張る生徒も多くいる。現に文法のクラスでは日本語は全く聞こえない。ある意味日本人の私の友達が一番英語を勉強したがっているように私の眼には映っていると思う7。したがって、日本人と大きく見て距離を置くのではなく、それぞれのポリシーを感じ取り、個人として関わっていくことが大切であると考えている。
今回は最後に日本の英語教育において今現在考えていることを述べておく。結論として日本の英語教育は偏っているが、無駄ではないと考える。偏っているというのは受験勉強の方向に、である。単語を固め、文法を学びテストを行う。日本の学校受験において英語試験は多くの場合がリーディングとリスニングを図るものであるため、その二つをできるようにさえしてしまえば良い。それが今の日本教育における正直な考え方だろう。しかしそれでは不十分である。日本の教育において、一番足りないもの、それはアウトプットの力である。
語学学校では先生が文法も単語もすべて英語で説明し、そして自分たちの意見を英語を用いて話し合う機会が多い。つまり単語と文法をアウトプットし続ける時間が英語の授業であるのだ。日本の授業は目だけを使うことが多いが、口や耳を使う時間のほうが圧倒的に長いのである。こちらのほうが「生活をするための英語」を習得するには良いと思う。
現在グローバル化の時代が進み、人の移動が激しい世界である。だから私は英語を学ぶ意義として一番大きいのは志望校に受かるため、ということではなく人とコミュニケーションをとるための手段を獲得することであると考える。だから日本の英語教育は不十分であると表現したい。インプットは丁寧にできている。だからそれを使えるようにすることが「日本人は英語ができる」という常識を作るためには必須であると考える。例えば英語の授業は英語しか使わない、ディスカッションを積極的に行うことなどがアウトプットの例として挙げられるだろう。絶対に正確な文法を使う時間、正しい単語を選び取っている時間はその中にはない。とにかく耳で単語の意味を聞き分け、口で英語を発していくのである。間違えていることを気にしている暇はない。このアウトプットが「使える英語」を習得するには効果的ではないかと感じた。
まだまだ来て一か月目。考えたこと、感じたことを率直に記していきたい。英語の習得もまだまだ。電車のアナウンスなんて全く聞こえないし、店員さんとの会話では聞き返すことがほとんど。頑張るぞーーーー!!!