学生ブログ

留学2024.08.05

トロントでの留学体験記 vol.4

 最低気温は20度前後、最高気温は30度前後。私の人生の中で最も過ごしやすい夏を過ごせていることは間違いない。日差しの強さは感じるものの日本より湿気も少なく、からっとしており、気温自体は日本と比べられないほど心地よい。しかし室内はとても寒い。エアコンのかけすぎである。夏の日本女子大学の教室も寒すぎるほどエアコンを効かせていたが、同じようにこちらの学校でも建物一括管理の空調設備を導入しているようでとても寒い。毎日バッグの中に羽織るものを入れて登校しているほどである。私はしっかりと中と外の寒暖差にやられ、鼻かぜを引いている最中である。今回は環境問題について考えたこと、日本人は英語ができないと言われること、また世界各国の料理の捉え方について記述していきたいと思う。 

 

 7月は学校で使われるテキスト内において環境問題を取り扱う時間があり、改めてこの問題について考えることができた。まず冒頭でも話した通りに、エアコンの問題から取り上げていきたい。トロントにいると日本よりもエネルギーを浪費しているような気持ちになることが多い。今そう感じる一番の理由はやはり室内が凍えるほど寒いからである。日本に去年までいたせいで、私はトロントが暑いと感じることはほとんどない。だからトロントの人々がエアコンを日本のように常に使い続けることに驚いた。日本では設定温度は28度という不思議な常識があったりするが、こちらは25度の設定温度をよく見るし、私の部屋で使っているLGのエアコンは18度設定にまでできる。夏の暑さを乗り越えるためにエアコンを使うことは今の地球環境にとって必須となってしまったが、そこに使う電力をもっと抑えられると思った。部屋の中をキンキンに感じるほど冷やす必要はないだろう。学校のスタッフに「もう少し部屋の気温を上げてほしい」と主張したものの、「Welcome to Toronto!」と軽く流されてしまった。エアコンの電力に対する問題意識の低さが伺えた。 

 また最近バスと路上から熱を感じることがある。バスの中は涼しいものの、外観には排気管が取り付けられており、そこから出ている熱を蜃気楼として見られることがある。また、路上にはところどころグレーチングがあるのだが、そこからの熱気がとても暑い。私はその場所が地下鉄の線路と一致しているため、地下鉄が発生する熱を路上に放出しているのではないかと考えている。証拠は、はっきりとはないものの、特定のグレーチングのみから熱を感じるため、人為的なものであることは確実だろう。 

 

 次に日本人の英語力について。7月の最終週、スイス人のクラスメート2人とイタリア人のクラスメート1人に「なぜ日本人は英語が話せないのか」と聞かれた。あるクラスメートの友達が日本に旅行に来たそうだが、レストランや店の中など日本人が英語を話せないということを聞いたと言っていた。私は実際「英語が話せない」日本人は多いと思っている。だがこのように外国人に思われ、言われたことに対してとても腹が立った。なぜかという明確な理由は思いつかない。ただ日本が好きな私にとっては、少なくとも褒められたものではないため良い気持ちはもちろんしなかった。なぜ海外から見て日本は英語が話せないと言われるのか、考えようと思う。 

 まず、第一前提として、もうすでにどこかの留学レポートにも書いたように日本人は英語ができないわけではない。学校の先生も多く言っているが、読む力や文法力を図るペーパーテストに置いてでは、日本人は「できる」という。高校や大学の入試をはじめ、学校教育では紙や視覚資料を使う。では、なぜ日本人は自分たちが英語を「できない」と思い、外国人は日本人が英語を「話せない」と思うのか。それは日本の英語の教育が不十分だからであろう。詳しく言うともっとアウトプットをするべきなのである。海外の友達の情報しか今のところないが、英語の授業では先生が英語を話すことが当たり前という学校が多いようだ。日本人は英語を話すときに完璧な語法、文法で話さなければとか英語を話すこと自体が恥ずかしいと思っている人が多いような気がする。日本では日本語が使えれば生きていける。海外に出ようと思わなければ島国である日本に英語は必要ない。一方で、ヨーロッパはそうではない。隣の国に行くことは日本でいう国内旅行くらいの軽い気持ちで遊びに行けるし、EUという特殊なつながりもある為に国同士の交流はとても盛んである。一方でフランス語、イタリア語、スペイン語など言語は固有のものを持っている国も多い。つまり、他国同士で話す機会が多く、英語を使うという感覚が当たり前なのである。 

 もちろん英語力には個人差があるが、それでももっと日本人は英語を話せるようになるべきだと考えた。外国にとっては英語がコミュニケーションの手段の一つと思っているようだが、日本人にとってはテストの一つの教科であり学力を図る手段の一つのように考えている人が多いような気がする。だから、この考え方自体を変えるべきだと思うのだ。日本に魅力を感じ、外国から観光し来日する人々は近年多くなっている。俗にいう賢い、頭の悪いに関係なく、一定レベルには英語を話せるようになれたほうがいいと思う。英語が話せるというのは現代において、お金を稼ぐという生きることに直結する術になりつつあると考えるからだ。 

 

 最後に世界の料理についてである。カナダは移民の国ということもあり、トロントにいるとアメリカ、メキシコ、ジャマイカ、中国、韓国、ギリシャ、トルコ、日本、タイ、イタリア、フランスなど世界各国のレストランが存在する。そこで学校の友達から言われるのは「fake」という単語である。「ここのピザおいしかったよ」や「タコスってこんな感じなんだ!」など話すことが度々あるがその度にその国出身の人に「でもそれfakeだよ」と言われる。もちろんこれは「日本で食べたことがある」も含まれる。実際にいたこだわりの強いイタリア人の友達は、ピザ好きと私が言うと、日本のピザはfakeだよと言われたこともある。私は最初、「いや、私が食べたのはピザだが」と反抗的に思った時期もあったが、少し深く考えてみると私も同じようなことを言っていることに気が付いた。それはsushiである。スイスでsushiというとアボカドとマンゴーを使うのが一般的だと言われた。握りの状態のsushiも見かけることがあるがそれよりもカリフォルニアロールと呼ばれる形のsushiのほうをよく見かける。外国人の友達がsushi好きと言ったとき私は「でもこれは日本の寿司ではないよ、『real』ではないよ」と言ったことを思い出したのである。 

 もちろんその国発祥の料理はその国が起源となるため、その国が本場となる。その国の気候やとれる食材、水、調理方法が重なった結果生み出されたものだ。sushiを例に出すと、日本は食料自給率が100パーセントに近いほど米の収穫率が高く、島国であることから新鮮な魚が獲れる。魚を生で食べるというのは全世界で当たり前ではないし、米といっても日本米のようにもっちりと水分量が高い米は日本古来のものである。だが私の友達でsushiを食べると言っていた友達の出身国であるスイスはどうか。まず海が存在しない国であるため生の魚というのはサーモンとマグロしか知らないようであった。日本のsushiレストランに行った際、ハマチ、カンパチ、いくら、ウニ、ホタテなど日本で食べられるようなsushiを食べることができた。私にとっては「これがsushiだ!」と歓喜したが、友達は「魚はすべて同じ味に感じる」と言い、いくらとウニは口にすることができなかった。「気を悪くしないでね」と彼女は言ってくれていたが、確かに見たことのないもので野菜や肉とは質感の違う食材は食べる気にならないだろう。この時間を過ごした後、私は食文化が全く異なっても日本料理がその国に広まっていることにうれしさを感じたのである。海がない国、米を主食にしない国でも、日本の料理に興味を持って食べてくれている。日本料理が広まった先の国で、その国にある食材で、その国に住む人にとっておいしいと感じる料理に昇華、アレンジしているだけのことだと思うのだ。だからこのスイスで食べられている日本料理は「fake」なのではなく、「Swiss Japanese food」だと思うのだ。 

 ここで食べられる世界各国の料理たちは確かに起源である国の料理のままの味を楽しむことは難しいかもしれないが、トロントでも楽しめるように最大限工夫された「Toronto’s pizza」や「Torontos tacos」なのである。これもまた文化の交流な気がしてこの考え方になった時わくわくした。そして、いつか起源の国に行き、本場の味を楽しんでみたいとさらに思うのである。 

最新学生ブログ