学生ブログ
トロントでの留学体験記 vol6
トロントで生活をはじめ半年が経過した。9月に入りまず初めに感じたのは風が変わったということである。日向では太陽の暖かさを感じられるが、風が冷たいのだ。きっかり9月1日にそれを感じ、ホストファザーにも、「風が9月から変わるんだよ、秋が来たね」と言われ、季節の流れを強く感じられる月となった。9月最終週には朝起きた時間(7時ぐらい)に12度になっているなど気温も共に下がっていることをしっかり感じられる。また紅葉も始まってきた。まだ本格的とはいかないが枝の先からまるで絵の具で描かれたような真っ赤な葉を見ることができ始めた。また9月下旬の時点で、日没は約7時半となり、火が短くなってきていることをひしひしと感じている。
私が今月一番うれしかったのは、家族とトロントで会えたことである。9月第一週、第二週の二週間私には夏休みがあった。最初の一週は学校で出会えたスイス人の友達とトロントでのちょっとした観光地を巡った。一般的な観光客として訪れる可能性は高くないが、訪れて損はない、といったようなマイナーな観光地を多く選択した。留学に来たからこそ行けたと思う。次の第二週で家族が日本から来てくれた。私は英語の生活ができているところを家族に見てもらいたい、楽しく生活できていることを知ってほしい、家族にとってはたった数日間の旅行だから全部素敵な思い出にして帰ってほしいといろいろなことを考えた。私は基本、旅程を積極的に組む人間ではなく、頼り切る人であり、プランニングをするのがまあまあプレッシャーだった。正直疲れたが、家族は楽しんでくれていたようで、頑張ってよかったと思う。また、家族がホストファミリーに挨拶をしに来た。というよりこれが一番の目的だった。私の大好きな2つの家族を同じ空間で見られたことがどれだけ幸せだったことか。私はやはり「人に恵まれているなあ」と改めて感じるとともに、あと半分頑張らなきゃと気を引き締めた。
また8月末に100人程度の生徒が卒業したが、9月第3週目には200人近い新入生が入学してきた。学校の雰囲気がまた一気にガラッと変わったのである。もう既に6か月いたがそんなの関係ないと言わんばかりに、友達作りというここで一番必須なタスクがまた降りかかってきた。私は、友達を作るのは苦手ではないが、それでも最初はとても緊張する。だから、最低限気も使ってしまうし、会話をつなげようと頑張ってしまうのだ。まだまだ友達は少ないけれど、ここからまたどんどん増やしていけるように行動を起こしていこうと思う。
さらに今月から語学学校を卒業するまで学校内の生徒会のようなグループに入った。これはボランティアの活動である。新入生の手伝いや、生徒たちの意見を職員たちに伝えたり、学生たちがより楽しく過ごせるようにアクティビティを企画したりする。また、ほかにもカナディアンのネイティブたちと交流する機会を頑張って作りたいという思いもあった。今月はトロントと日本のスーパーマーケットの違い、また現代における英語の位置づけについて考えていきたいと思う。
では、まず初めにスーパーマーケットの違いから。これが気になり始めたのは、家族がトロントに来た時だ。私は、閉店間際のスーパーマーケットに訪れた。このスーパーはMetroと言いトロント中に多くあるが、そこでピーマンやパプリカにホースで水をかけている様子を見たのである。カナダのスーパーでは日本のように数個がまとまった野菜の売り方とバラで売る方法があるが、水がかかっていたのはバラで売られている方だ。日本よりはるかに多く積み上げられ、はるかに広い面積を占めた売り場があるのだが、日本のようにポリ袋が備え付けられている野菜とそうでない野菜、どちらもある。ホストファザーに「なんで野菜に水を直接かけるのか」と聞いたところ、「一日の中でいろんな人が触ったであろう野菜を洗っているというのだ」という答えが返ってきた。だがもちろん、野菜やその売り場、床まで水でびしゃびしゃになっていた。私はそこから痛んだり、かびたりはしないのかとそっちの方が気になってしまった。
お肉売り場は日本の2.5倍はあると言っても過言ではないだろう。ソーセージ・ベーコン売り場(日本のように密閉された袋に入っている)、生肉売り場(日本のようにプラスチックの箱の上に乗せられラップがかけられている。)、ハムやサラミ、ソーセージ売り場(こちらはショーケースで売られていて、基本店員がおり量り売りになる。)に大体分かれている。日本と違うなあと感じるのはラムチョップが置いてあることが多いのと、チキンが一羽置いてあるのが当たり前ということだ。(生肉の状態ともうローストされている状態、どちらも見ることができる。)それに比べて魚売り場は日本よりは小さい印象を受けた。2つに分かれており一つは冷凍スペース(貝、エビをよく見る)、もう一つはショーケース型の売り場である。氷が引き詰められていてそこに直接切り身が置かれていて自分で注文し量り売られるようだ。サーモンと白身魚を置かれているのをよく見るが種類がいつも同じなのかどうかはわからない。ただ一つ言えるのは日本のように寿司はそこには置かれていないし、うにやいくら、あじなど魚介の種類が豊富ではないということだ。
また、ここからは店舗の大きさによるが、スーパーには食材以外にも薬局やレターショップ、洗剤、歯ブラシなども売っており、なんでも屋さんというイメージが強いように思える。
ここでもう一つ記述したいことがある。このスーパーの話から派生したのだが、ヴィーガンに対しての考え方である。大前提、私はヴィーガンやベジタリアンなどではなく、彼らを否定しているわけでも肯定しているわけでもない。あくまで中立な立場である。また、ヴィーガンの友達がおり、その子の情報や意見をよく聞いている。
スイスの友達に「日本ってヴィーガンやベジタリアン用のメニューって全然ないよね」と言われたことがあった。実際、私もヴィーガンの友達とご飯に行くときにレストランを見つけるのにいつも時間がかかり、数自体も少ないと感じる。トロントに来て多くのレストランがヴィーガンやベジタリアン用のメニューを用意しており、メニュー表にもわかりやすいように葉っぱのマークが付けられていることを知り、日本の状況と全く違うなあと感じている。
日本の食育というと、バランスの良い食事をとることの重要性や食物連鎖における人間の位置づけを学ぶこと、さらには、校外学習や林間学校で牧場を訪れたり、そこで牛乳の乳しぼりをする程度が一般的かと思う。ヴィーガンやベジタリアンに食生活を変える人のきっかけはそれぞれあるだろうが、その中で動物の命を奪いたくない、出荷されるところを見て苦しくなったという理由を持つ人々がいる。
この二つを材料に日本とトロントでの食生活を比べてみたい。私は、日本のほうがヘルシーだと思う。まず、肉だけでなく魚、米、野菜、キノコ、大豆製品をよく食べる。だが、トロントの料理は飽き飽きするほど茶色いのである。フライやポテト、パンがほとんどである。野菜を摂ろうとしなかったらいくらでも生活できるほど緑を見ないのである。ここでスーパーの売り場に戻りたいのだが、毎日必ずある、10羽程度の丸ごとチキン、大量でソースの味が異なるチキンウィング。普通の食生活を送る私でも、毎日何羽の鳥が売られているのだろうかと少しぞっとする。
つまり、ここで言いたいのは「肉」というものを目にする機会とその量が本当に多いということだ。そのため、日本の食育が十分だとは言えないとしても、トロントにいる方が私は自分が口にする物について考える。毎日見るこの丸ごと一羽のチキンを見て、少し悲しい気持ちにさせられる。このような経験を通じて、自ら調べた結果、ヴィーガンやベジタリアンになるという人が一定数いるのではないかと思った。結果として、食肉についての関心が日本人よりも強く、この食生活が広まるのが日本よりも早いのではないかと考える。
私は、そうはいってもお肉が大好きなので今のところなる気はない。この問題についてはお互いに強制せず、個人が正しい、したいと思った通りに動くことが大切なのではないかと考えている。
次に考えたいのは、現代での英語の捉え方である。最近、新しくできた日本人の友達(間所は同じ語学学校だが9月にイギリスのオクスフォードからトロントに移動してきた同い年の大学生である)がこんなことを言っていた。
「トロントってネイティブほんとに少ないよね。学校の先生って言ってもなんだかんだアクセントあるし、めっちゃ聞きづらかった。ホストファミリーもフィリピン出身の家族だから、家でもネイティブと会話できないし。だけどね、最近ネイティブの先生の授業を受けられて、英語がするする頭に入ってきてめっちゃ良かったんだよねー。」
なぜかその時はわからなかったが、不思議と賛成できなかった。私は英語を学んでいる人間としてネイティブの英語の大切さを感じてきた。ネイティブというのは本物ということだ。楽器を学ぶ時には、プロの音楽家の音をたくさん聞くことで早く上達する、サッカーを学びたいならプロ選手が教えてくれる教室に行くべき、などマスターしたいと思ったときには本物の人が必要であろう。また、トロントでたくさんの先生から英語を学んできたが、英語という言語をマスターしている人は、出てくる単語や言い回しが日本の教科書には載っていないような「生きている英語」を使っていると感じられる。またアメリカ英語、イギリス英語、カナダ英語、オーストラリア英語など英語にもたくさん種類があるが、英語を第一言語にしている人のことをネイティブと私は定義している。
ではなぜ私はその子の意見に注意できなかったのか。おそらく第二言語として英語を使っている人たちの多さに気づいたからである。留学するまで、実は日本人以外は英語が話せると本気で思っていた。なぜかはわからないが、本当にそう思っていたのである。だがトロントで国籍が異なる友達と出会ったり、トロントにある様々な国の料理が食べられるレストランで店員さんと会話をする中で、多くの人が英語を学習中の身であり、様々な国の英語があることを学んだのである。例えば、フランス人はhの発音が難しいようだ。(日本人にとってthの発音が難しいみたいに)Hungryは大体angryに聞こえるし、humanはumanと発音する。また、フランス人に限らずヨーロッパ人、ラテン人のアクセントで苦戦するのがRの発音だ。スペイン語やイタリア語を使う人からはRの巻き舌を強く感じられる。反対に彼らからするとアジア人の英語は聞き取りづらいようだ。(日本人にとっては韓国人の英語が一番理解しやすい)インド料理レストランに行ったときには店員さんのMay I help you?さえ聞き取れなかった。つまり、日本人には日本アクセントがあり、フランスにはフレンチアクセント、コロンビアにはコロンビアンアクセントがあるということだ。
ここで私が言いたいのは、英語を第一言語とする人(ネイティブ)と話す機会と同じくらい、むしろそれ以上に英語を第二言語とする人と関わる機会が多くなってきているのではないかということだ。グローバル化が進み、日本には多くの外国人の観光客が訪れ、国を超えてのビジネスが多く行われている現代において私はネイティブと関わるだけでは物足りないのではないかということである。それぞれの国のアクセントに触れ、多くの人が英語を学んでいるということを感じ、同等に英語を使うことでコミュニケーションをとれるようにするスキルを身に着ける。これも今必要なことだと思うのだ。そして、日本では難しいこの経験を学生の今、できていることがとても貴重だと思うのだ。
だからこそ、その子の意見には賛成できなかったのだろう。ネイティブと関わることは自分の英語能力をできるだけ早く伸ばす、正しい英語を学ぶために必須である。だが、それと同時に世界の公用語とされる英語はそれぞれの国で学ばれていて、それぞれの国の英語が存在しているということを知ることもまた、現代にとって重要だと思うのだ。
今月はカナダの先住民族ファーストネーションズについて興味が湧いている。研究してみたいけど、研究できるとこなんて大学にないよなああ、、、。