学生ブログ
トロント留学体験記vol.8
11月末の時点で日没の時刻が16時半ほどになったトロント。まず初めに今月トロントで起こった目立ったことと言えば、サマータイムが終わったことだろう。国際時間を基準として、そこから1時間日中を伸ばすというサマータイム。3月から10月末まで行うようで、私は恥ずかしながら、11月になるまでサマータイムの中にいるとは知らず、「昼間が長くていいなあ」なんてことを思っていた。日没の時間に合わせて日中を調整するこの制度は、切り替わる一日だけ少しつらいが、それ以外はとても合理的だと思った。日本人よりもパーティーを行う機会が多いカナダでは、夜に時間を動かすことで人々が太陽に合わせて行動しやすくなる。7月や8月に記述したような気もするが、サマータイムがあったとしても最も遅い時は夜中の8時や9時に暗くなる国だ。人が生活しやすくなる一つの工夫として素晴らしいと思った。
また、11月の中でもう一つ変わったのは町の景色だろう。紅葉がピークに達したところから、月末には寒々しい冬の景色へと変貌した。気温は一番寒い時で2℃ほどと、日本の真冬の気温となったが、それよりもトロント中のきれいな紅葉の景色がどんどんと失われていくという変化が私に冬の始まりを感じさせ、またこの留学生活が残り少なくなってきていることを実感させた。今月はトロントで化粧品を買うときに感じること、憧れだったニューヨーク旅行について。また私の英語力について記述していきたいと思う。
まず初めに、トロントにいるとメイクをする人、しない人、メイクをしっかりとしている人、ナチュラルメイクの人など様々な人を見かける。私の視点からではあるが、語学学校にいると日本人や韓国人の女性はほとんどメイクをしていて、ヨーロッパ人、ラテン人のほとんどは普段はせず、パーティーや特別な時にメイクをしているような印象を受ける。私は友達やほかの人がメイクをしていようとしていまいと何も感じない人間だが、自分自身がメイクをしないで外に出かけることには強い抵抗がある人間である。なぜそうなったのかは私にもわからない。おそらく日本の、メイクをするのが当たり前で服装も含めて着飾ることが当たり前、という環境の影響であろう。それと、個人的には欧米の女性たちへのあこがれもあるかもしれない。トロントに来てとても感じるのが、目鼻立ちがくっきりとしている人が多いということである。自己否定というわけではないが私の鼻は低く、目が大きいわけでもない。だからメイクをしてそれぞれのパートを際立たせるわけだが、欧米人の顔立ちはそれらをする必要なんて全くないじゃないかと思わせる。ここで私は、「美」の定義が欧米基準であることを強く感じるのである。もしアジア人の顔が美しいとされていたら、ヨーロッパ人がメイクをし、アジア人がメイクをしないという世界があったかもしれない。
メイク用品店も日本とは大きく違う。俗にいうデパ地下のような大きいブースで分かれている売り場を見たことはなく、化粧品ブランドがあったとしたら、洋服屋さんのようにデパートの一角が丸々使われているところしか見たことがない。それ以外はというと薬局の化粧品売り場に近い。シャネルやクリニークといった、日本で言う「デパコス」のブランドでさえもだ。ひとつのブランドにあてがわれる場所は狭く、そこに商品がところせましと並ぶ。これもメイクをする人口の違いが関係あるのだろうか。一方で日本よりも格段にバライエティ豊かなのが、ファンデーションのカラーである。頻繁にこのレポートで記述するように、カナダは様々な国の人が住む多文化な国である。そのため肌の色が様々だ。日本では見かけたとしても6種類ほどのファンデーションしか見たことがないのだが、NARSというブランドには18種類のファンデーションが並んでいた。
顔に限らず、ファッションという括りで感じることは、アジア人以外の人はファッションに対しての感覚が違うのではないか、ということだ。「おしゃれ」という感覚自体が違うのかもしれない。日本では女性に限定しても、フェミニンな服装の女性や、ストリート系と呼ばれるようなカジュアルな服装をする女性、オフィスカジュアルのようなかっちりした服装をする女性、古着テイストの服装を好む女性など、多種多様にファッション・外見に気を使っている人を多く見かける。だがトロントではこの存在はまれなのだ。ジーンズにフーディー、スニーカーを着用する人が多い。話を盛っているわけではなく、スカートをはいている女性や、ヒールのサンダルを履く女性などをほとんど見かけたことがない。私は着る服やするメイクで自分のその日の機嫌を取り、それは時に鎧のように自分を強く見せるものになるが、そのような印象を海外の友達に対してあまり感じたことがない。この外見の捉え方に対しては日本・韓国と大きく違うことを感じるが、なぜなのかがはっきりと分からない。とても興味深い点である。
ここからは11月上旬で訪れたニューヨーク旅行について記述していこうと思う。トロントから約10時間、バスで向かったその土地は私にとって憧れの場所であった。ここで昔話を挟むが、私の住む横浜市では小学生・中学生が対象の、国際平和スピーチコンテストが行われていた。そこで一位を獲得すると、姉妹都市であるニューヨークにある国連本部を訪れることができる、というプログラムがあったのだ。小学2年生の時に識字の重要性を学び、担任の先生からカンボジアの内戦、地雷について学んで以降、国際平和・国際協力というものに対して強く興味を抱いていた私は小学生当時、真剣に横浜市で一位を獲りたいと思っていたものの、その願いが叶うことはなかった。中学高校と部活に打ち込みつつも、困っている人を助けたい、苦しんでいる人の力になりたいというモチベーションが消えることはなく、私なりにいくつかの活動に取り組んできた。世界の国々が持つ色とりどりの文化に惹かれたために日本女子大学でも文化学科を選択した。大学卒業後の進路を考える上で自然と就職が浮かび上がってきたのだが、その上で、日本と世界をつなげる仕事がしたい、国際協力ができる仕事がしたい、困っている人の手助けけができるような社会貢献をしたいという思いが消えることはなかった。この意思を現実の行動に移すために英語が必要だと感じ、英語でのコミュケーションができるようになりたいと思ったのもまた、留学を決めた理由の大きな一つの理由であった。だからこそ、国連本部の建物は私にとってある意味夢の場所なのであった。タイムズスクエアやエンパイアステートビルなど、世界的に有名な場所にも訪れ観光も楽しんだが、一緒に来てくれた友達を連れまわし、国連本部を自分の目で見てくることができた。小さいころの憧れが変わらずに長いこと憧れであり続けるという現象は、当たり前ではないだろう。いつもどこかで私の指針であり続けた存在を見たときに、なぜか涙が込み上げてきた。感慨深かったからなのか。私には今でもわからない。ただ私の将来の人間像、入りたいという組織・会社の軸は変わっていないことを感じることができた。大きな会社のエントランスに座るホームレスの人々や、美しく着飾った人々がミュージカルのシアターに入る様子など、極端な「資本主義」の世界を体現するニューヨークがある一方で、世界平和を目指す組織がある。とてもギャップがある場所だったが、すべてを含めて私のことを刺激してくれた旅には間違いない。
同学年の友達たちが本格的に就活をはじめ、友達によってはもう既に内々定をもらっている友達も出てきた。私は2年後どこで働いているのか、自分の思うかっこいい社会人になれているのか、やりたいことをできているのか。将来への不安は尽きないと同時に、同い年の友達に大きく後れを取っていることを感じている。(休学をしているのだから、後れを取るも何も一年の違いがあるのは当たり前なのだが、近い人々が社会に出ていく準備をしていると感じると焦りを覚えるのである。)
では最後に、私の英語の上達具合について記述していこうと思う。私の通う語学学校は6週間が1クールとなっており、1クールが終わると自動的に1つ上のレベルのクラスに進むという仕組みになっている。今月末1クールが終わり、先生からフィードバックを受け、一つクラスのレベルを12月から下げることになった。10月から11月にいたクラスで出てくる単語の専門性や、1週間単位で終わらせなくてはいけないタスクは、私にとって非常に大変なものであり、また、各クールごとに行われるテストの成績も芳しいものではなかったため、妥当であると客観的に感じる。
私は学校の授業でしか英語にほとんど触れてこなかった。その為、私の頭には受験勉強ように覚えた単語たちや、基本的な英語文法しか入っていない。(率直に言うと私は日本での英語のテストでさえ毎回ひどい点数しかとっておらず、強く苦手意識が染みついているため、日本の教育レベルで言っても格段に高い英語力を持っているとは言い難い。)だが最近は「なんだ、その単語?!」とか「この表現はじめましてなんだけど…」と思うことばかりである。このように私が必至で単語の意味を調べたり、コンテクストを理解しようと努めているときに、クラスメイトと先生は知っているのが当たり前かのようにポンポンと話していくのだ。ここで私が伝えたいのは、おそらく人生の中で私が英語に触れてきた時間が圧倒的に少ないということである。そこまで洋楽に興味をもってきたわけでも、英字新聞や本を読んできたわけでも、ポッドキャストを聞いてきたような人間でもない。だから、英語に触れてきた総量が違うことを今月強く実感した。そしてこの努力は一朝一夕で実るものではないことは明らかである。私は12月から始まる6週間でリスニング能力が爆発的に伸びるとか、日本語の作文のように長い英文が書けるようになるとは思わない。ただ日本にいるよりも確実に英語に触れている時間が長いこの留学生活の中で、できる限りその時間を増やすしかないのだ。10月から11月の間教わっていた先生に、このレベルの生徒としてはひどい文法の問題があるよ、と言われ、それがだいぶグサッと私の心に刺さっていたのだが、これは本当に積み重ねの問題であろう。4月から頑張ってきていてまだこのレベルなのか、私は成長していないのか、としっかり傷つき、私の英語スキルとその成長速度に失望していたのだが、おそらくそんなわけはない。使える単語も増えた、聞こえる英語の速度も変わってきた、授業中発言できるようになった、友達と予定を立てて遊べるようになったのだ。できることが増えてきたからこそ私はさらに高みを目指しているし、できることをもっと増やそうとしているのである。この留学経験はきっと、私の人生の中で英語に触れる総量を爆発的に増やしている。残りの2ヵ月でどこまで伸ばせるかは私にも不明だが、できる限りのことを、帰った時に友達や家族に自慢できるような何かを持ち帰れるように、頑張り続けたい。
実はこれを書いている12月9日、下がったクラスの先生が8月にも教わった先生だったのだが、前に比べて自信がついたね、進化したねと私に言ってくれた。ひとつ前のクールではこてんぱんにやられていた私にとっては跳ね上がるほどうれしかったと同時に、自分の小さな自信につながった。できるできる!私がんばれ!!