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留学2025.01.05

トロントでの留学体験記-vol.9

12月21日に冬至があり、1番早い日没が16時21分だったトロント。11月の上旬まで楽しめていた紅葉はもうとっくに終わり寒々しい冬の景色が到来したのだが、中学校の理科の授業で学んだ通り、広葉樹林の葉のみが落ち、針葉樹林のみの緑が残っている。氷点下を記録する日も増えてきて一番寒かった日には気温-15℃、体感気温-18℃となり、日本の冬でさえ寒がっていた私にとっては未知への挑戦ということになった。私の個人の意見だが雪が降らない寒い日が本当に寒い!今月はフード付きのダウンジャケットはもちろん不可欠で、パンツの下にタイツを履き、インナーとしてヒートテックとマフラーを常時着用、寒い日にはニット帽や手袋を使うことで暖かくしていた。だが、ここで私が日本と違い驚いたのは、トロントの室内の暖房がとてもよく利いているということである。例えば私の家から最寄りの駅までは徒歩10分程度である為、歩いているうちにぽかぽかとしてくる。その状態でsubwayに乗ると暑すぎてダウンジャケットを脱ぎたくなるのだ。しかし、そのあとまた学校まで歩くため再び着用し、学校に着くとまた暑すぎて耐えられなくなるという繰り返しになるのだ。この問題点は学校に行くだけなのに手荷物が多くなるということである。リュックを使って登校するのだが、駅に着くとマフラー、ジャケットが手荷物になり、駅を出る時にまた着るの繰り返しで正直とても面倒くさい。(日によっては学校内でタイツやヒートテックも着てられなくなり、授業前に脱ぎ、帰る前にまた着ることもある。)屋外が寒い分、屋内を暖かくしてくれるのはありがたいが、この温度差により体調をどこかで壊しそうだ。もちろん気を付けるが。

 体調を壊すというと、学校の先生たち曰く冬は気を病む人が増えるらしい。理由は日光不足によるビタミンDの欠乏らしい。季節に限らず、薬局にはビタミンB、C、Dなどが多く売られている。日本でも売られているかと思うが、売り場の大きさがかなり大きく、トロントに住む人々にとって必須であることが伺える。実際こちらで生活していると、曇りの日が12月に入ってから急激に増えたことを感じ、晴れの日になると元気がみなぎることをしっかりと感じるのである。私の通う語学学校でも職員たちがビタミンを買うことを勧めていて日本では聞いたことがないからとても面白いと感じた。

 

今月のレポートではトロントで楽しんだクリスマス、カナダの先住民について、そして自己肯定感について感じたことや考えたことを記述していこうと思う。

 はじめにクリスマスについて。11月にトロント全体で行われたサンタクロースパレードを皮切りにクリスマスシーズンが始まった。先生の中にはトロントは移民も多くクリスチャンだけの国ではないため大規模ではないというが、私にとっては十分「街中でクリスマスを楽しんでいる、祝っている」と言える規模であったと日本と比べて感じる。そう思った理由を順番に記していく。

 一つ目は各家庭で装飾されるクリスマスデコレーションである。多くの家がキャンディーケーンや家より大きいサンタ、イルミネーションを飾り楽しんでいた。夜になるとそれらがキラキラと光ってきれいだった。また町の街灯にもデコレーションが施されたり、会社やホテルのエントランスにはクリスマスツリーが設置されたり、遊園地や観光スポット全体がクリスマス仕様になったりなど街を歩いているだけでとても楽しかった。

 二つ目は「Messiah」を鑑賞したことである。ヘンデルが作曲したオラトリオ「Messiah」はバッハの「マタイ受難曲」と並ぶ傑作宗教曲とされており、歌詞は聖書より引用され、神の栄光と賛美を讃えている。12月21日というクリスマス直前に行われたこのコンサートはトロントの大きなオーケストラによって演奏され、100人超の合唱隊と4人のソロリストが歌うという何とも豪華なものであった。私が個人的に感動したのは撥弦楽器としてエレクトーン、オルガン、そしてチェンバロが使われており、実際にそれらの音色を聞けたことである。2時間越えの超大作であったが、美しい楽器の音色、マイクを使わずに声をホールに響かせるソリストたちの歌声に魅了されたため一瞬の素敵な時間であった。Messiahでは日本でも有名なハレルヤ・コーラスが入っている。それまで静かに聞いていた人々が急に立ちあがった時には大変驚いたが「郷に入ったら郷に従え」という言葉の通りに周りに倣うことにした。終演後調べたところ、イギリスのジョージ2世がハレルヤの演奏に感動して起立したことに由来しているらしいが私としては一体何が起きたのかと驚くばかりであった。またクライマックスでは歌詞がアーメンになり神と讃え、曲が終わったが、日本ではあまり直接的に神を讃える曲を公共の場で聞いたことはないのでクリスマスならではだなあと感じた。

 そして最後はホストファミリーがふるまってくれたクリスマスディナーを食べたことである。私のホストファミリーはガイアナ出身のクリスチャンである為、伝統的なカナダのクリスマスディナーではないかもしれないが、クリスチャンが過ごすクリスマスデイとして記述していこうと思う。カナダでは日本やヨーロッパと違い、クリスマスイブにあたる24日より25日に重きが置かれる。ホストママはクリスマスイブの前にはシェリー酒やラム酒がたっぷり入ったケーキを準備していた。25日当日にはマカロニアンドチーズ、マッシュポテト、ローストハム、ローストチキンなどを1日中かけて作ってくれた。私の母もお正月シーズンになると一日中キッチンに立ち、おせちの準備をしてくれていたのでホストママの後ろ姿が母と重なって見えた。ディナーの直前にはみんなで目をつむり、手をつなぎ、ホストパパの挨拶を静かに聞いた。一番聞いたのは「Bless」という単語で幸があるようにと祈り、最後にはアーメンと言っていた。クリスマスツリーをはじめとしたクリスマスデコレーションを家でも楽しみ、テーブルクロスや紙ナプキンなどの細かいものまでクリスマスに染まった空間の中で過ごしたクリスマスはもちろん人生の中で一番になったことに間違いない。

 

 続いてはカナダの先住民について述べていこうと思う。英語ではindigenous peopleが先住民の訳として勉強するが、カナダの中で多く用いられるのはfirst nationsと呼ばれる民族である。現代のカナダにはフレンチカナダと呼ばれる地域(ケベックやモントリオール)があり、フランス語話者が多い。これは歴史的に見て、カナダに始めに上陸した人々がフランス人だったことが由来している。その後、カナダに上陸し、フランス人から土地を奪っていったのがイギリス人であり、現代ではほとんどの州で英語が話されている。これらの人々が上陸する前からカナダに住んでいたのがfirst nationsと呼ばれる人々であった。

 ここで私が日本と一番異なると感じることは、先住民へのリスペクトである。日本人でこのindigenous peopleにあたるのは北海道に住んでいるアイヌの人々と沖縄に住む琉球の人々だろう。他にも存在しているのかもしれないが、私はまだこの二つしか知らない。日本では、日本史の教科書に少し出てくる程度で認知はしているものの、先住民文化については多くの人が詳しく知らないというのが現状だと思う。しかし、トロントではカナダの一つの文化として取り上げることが多い。感覚でいえば、日本料理や着物のような伝統文化と同じような感覚でindigenous peopleというトピックがある感じだ。お土産屋さんにはドリームキャッチャーが売られていることが多く、夏場にはこれをテーマにしたお祭りがトロント議会の前の広場で大々的に行われていた。

今月にはROM(Royal Ontario Museum)とAGO(Art Gallery of Ontario)という大きい博物館・美術館を訪れたのだが、どちらにも大きなスペースが設置されていて多くの人が興味を寄せていていることを感じた。ROMでは先住民がどのような暮らしをしていたのか、ということがよく分かり、木製の船や服装などを見ることができた。私がその中で一番興味深かったのは冬の服装である。本物の動物の毛皮でできているようだったが、現代よりも寒く、服飾の技術も低かった時代にこれだけで本当に寒さを乗り越えていたのかと考えると衝撃だった。実際に着ることができたわけではないが、最近、現代のダウンジャケットを着ていても寒さをしっかり最近感じるからである。また、AGOでは先住民が書いた絵や彫刻を鑑賞することができた。まず、彼らには独自の言語体系があったようで作品の近くに描かれているキャプションには彼ら独自の文字と公用語である英語、フランス語が書かれていてとても面白いと感じた。調べていないため理由はわからないが、彼らの絵にはとても高確率で鳥がいたのである。一羽や集団、人とともに描かれていることもあり、形態はさまざまだったがしっかりと登場していた。彼らにとって、鳥は重要な役割を担っていたのだろうか、重宝していたのだろうか。しっかり調べてみたい、と思った。

 

 最後に、自己肯定感について学んだことを記述していきたいと思う。恐らく、この「自己肯定感」という言葉自体、近年作られた言葉だと思う。そしてこれが日本人には足りなさすぎることを感じた。(日本人だけでなく韓国人にも会話していると同じ事が感じ取れるのだが、直接話し合ったことはないので今回は日本人についてのみ考えていきたい。)

 まず、この自己肯定とは何か、ということを私なりに考えていきたい。文字通りに意味を読み取ると、「自己のことを肯定する」ということである。しかし、私はここに意味を追加したい。私にとって自己肯定とは「自分を大切にできる、自分への自信がある、自分が唯一である」ということであるとも思うのだ。SNSで誰もが情報を発信できる現代。沢山の芸能人やインフルエンサーがインスタグラムにおしゃれな私服やかわいい姿を投稿し、多くの美容法が目に入る。これは友達間でも同じことが言え、おしゃれなレストランで過ごした特別な時間やまるで雑誌の1ページかのような「映えた」投稿をよく見る。ここで若者たちは何を感じるのか。私たちは人と比べるようになるのだ。「インフルエンサーの○○ちゃんはすごくかわいくて、この化粧品を使っていたから買ってみよう」とか「ここの新しくできたカフェのスイーツがかわいいらしくて流行っているから行ってみたい」とか「最近のファッションはこれが流行っているのだ」と純粋な興味を持つことがきっかけとなりそれが少しずつ基準になっていく。すると、いつの間にかその基準と自分を照らし合わせ、「(○○ちゃんと比べて可愛くないから)私ってかわいくない」とか、「おしゃれなカフェの投稿がいっぱいでこの子はきっと自分より充実しているんだろうな」とか、「(最近は夏場、肌を露出する服が流行っていたけど)自分は太っていてスタイルが悪いから、みんなみたいに着れないな」自分を蔑むようになるのだ。実際にこれらは私と日本の友達の間で実際に何度か話したことのある会話であった。スマートフォンなんていう小さい機器の中でなぜ自分のメンタルは上がったり下がったりしなければならないのだろうかと思いつつも、今の私たちにとって使わないのはほぼ不可能だから、この状況から逃げるのは少々難しいように感じる。

 ただ、トロントに来てからこの劣等感みたいなものを感じることがほとんどなかったことに今月気づいたのである。トロントと日本では「美」の概念が大きく異なることがまず初めに挙げられるが、それよりも人々が他人の目を気にしていないことが私の変化の大きな理由だと感じている。ここには日本よりも体が大きい人が多くいて、誰でも夏のビーチではビキニを着るのが当たり前で、パーティーでは胸元が大きく開くようなセクシーな服を着るのが当たり前だ。ファッション雑誌に出てくるようなおしゃれな人ももちろんいるが、ジャージやスウェットのようなカジュアルでファッションよりも着心地のいい服を好んで着ている人の方が多いように感じる。また先月書いた通り、外出するときにメイクをすることが必須というわけでもない。体形や他人の目を気にすることなく自分の着たい服を着ているのだ。

そんな環境で生活しているうちに日本にいた頃と確実に違う軸が私の中にできていることに気づいた。それは「自分は自分でいたい」という軸だ。私が「かわいい!」と思った服を着るし、私が「したい!」と思ったことをする。日本では他の子と比べて太っているからとタンクトップを着たことはなかった。しかし今年の夏は本当にたくさん着た。トロントで初めてショートスカートを履いてみた。その時、友達たちは「そのタンクトップの色、いいね!」「そのスカートの柄、好き!」と褒めてくれたのだが、この時肌の色や体形についてではなく、着用している服装だけに言及していたのが実は私には衝撃だった。そして、素直に「でしょー!」と言えたのである。また別の例でいうと、語学学校の生徒会長に立候補した時のことである。私は素直にチャレンジしたいと思い立候補し、スピーチをし、実際に今生徒会長になったのだが、その時友達は「ヒヨリならできるよ!」とみんな言ってくれた。日本でも何度かみんなをまとめ上げるリーダーの役職やった経験があったのだが、立候補する時はいつも「誰かほかにやりたい人いないかな」とか「目立ちたがり屋に思われるかな」とか考えていたことをその時に思い出したのだ。

英語の勉強をしていて、クラスメイトの英語力と比較し落ち込むことはあっても、自分の価値は自分で否定する必要なんてない、と改めて思うことができた。元々、私はポジティブ思考の人間であるため、自分の性格を悲観することはほとんどなかったが、「それで良いんだ」と思えた。日本の友達はもちろん全員とは言わないが、ネガティブ思考の人が多く「私なんて…」という言葉ばかり聞くからまるで自己肯定をしている方がおかしいような、自己肯定を人前でしてはいけないような、そんな感覚があった。自分の性格を謙遜することが普通なんて今考えると馬鹿馬鹿しいと思うがそれが1年前までは普通だったのだ。しかし海外の友達で自分を蔑む人なんて私の周りにはいなかった。「Your attitude is so pretty!」と言えば「Thank you!」が返ってくる。「You’re so kind!」と言えば「Of course!」が返ってくる。自分の価値が何よりも高い、自分の価値は一番、というのはそれぞれで分かっているから「あなたほどじゃないよ」とか「そんなことないって」なんてマイナスな言葉は言わないのだ。したいことや思うことがあるなら自分の心に正直になって動いてみればいい、言ってみればいい。そこに他人の目なんて関係ないのである。

この考え方は、ある意味自分勝手な人間を生み出すように聞こえるかもしれないが、私が言いたいのはそういうことではない。自己肯定は自分が自分を一番に愛してあげることなのだ。他人の比べるような相対的なものではなく、自分が自分を大切に思う主観的な絶対的評価を自分で下せばいいのである。自分には価値があるということを証明したい時、他人からの言葉や表現で判断をするのは得策ではない。自分にしかないオンリーワンの部分を自分で探さなければならないと思うのだ。そうして自分を逃げずに探すことができた自分の長所はきっと自分の核となり、SNSなんていう表面的な見かけの充実なんかではなびかなくなる。

今までの留学体験記の中で一番長いパートになっていたと思うが、私はこの考えが日本人の特に若い世代たちに本当に必要だと感じたので長くなってしまった。私のトロントで感じられたこの考え方がしっかり自分で説明できていて、他人に伝わる、あとから読んでも自分で理解できることを願う。

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